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「SQUARE」

椛田ちひろ

2021年10月2日(土)- 10月9日(土)

13:00-19:00

月、火休み

会場:東京都中央区日本橋久松町4-12コスギビル4F 長亭GALLERY

入場無料

info@changting-gallery.com

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絵画というメディアは常に表面だけを観客に向けている。

その下にある線も、筆跡も、表面に隠されてしまえば観客に伝わることのないのが絵画というメディアの構造だ。

だから過剰である線や層は制作者の想いに反して、その数十分の一も伝わることはないのだろう。

人は視覚にその認識の多くを頼っている生き物だという話を聞いたことがあるけれど、視覚には死角があり、眼差しの届かないところを私たちは認識することができないのならば、表面だけで理解する絵画の構造とそれほどの違いはないのかもしれない。

今回正方形の作品で構成しようと思ったきっかけは明確にある。

それはインスタグラムというメディアの存在だった。

映えるという言葉を"バエル"と読むのは新しいという話を最近聞いたのだが、インスタグラムとセットで使われることの多いその新しい日本語は、どうも自分の作品とは相性が悪いような気がした。

だから長く関心を向けていなかったのだけれど、友人に誘われて参加したインスタグラムを使った企画でついに、この"バエル"という日本語を意識せざるを得なくなった。

インスタグラムは正方形を採用している。

私は以前より正方形という形を好んで制作に使っているが、それは縦や横を入れ替えることができるという、自由度の高さからだった。

インスタグラムというメディアが採用した正方形は、この世界の正方形というなんでもない形に何か意味を与えてしまったかのようで、以前から使っている身としては自分だけが知っている無名の土地が有名になってしまったような、どこか居心地の悪さを感じてしまう。

そうして表面に隠されたたくさんの情報を受け取って、それを認識している自分を見つける。

正方形は特殊な形ではない/正方形は特殊な形だ。

この2つの言い方のどちらにも納得できるし、腑に落ちなくもなってしまったくらいに、正方形はより一層特別なものになった。

特別になった正方形というメディアに向かい、いつもの制作だけれど少しだけいつもとは違うことに挑戦してみる。

ダイアリーのようなドローイングの小品、色を重ねたアクリルペインティングの連作、そしてボールペンワーク。

絵画というメディアは常に表面だけを観客に向けているけれども、表層に隠されて見えない下層が認識できないと断じてしまうのは、まだ少し早いのかもしれない。

椛田ちひろ

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椛田ちひろ(日本)

KABATA Chihiro(Japan)

1978年日本生まれ。美術家。

2002年武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。2004年同校大学院造形研究科修士課程修了。

絵画を主軸とし、「見ることができないもの」に着目する作品を東京を中心に制作、発表する。

主な個展

「公開制作81 椛田ちひろ:縺れ、解け、すべては進みながら起こる」(府中市美術館 2021年 東京)

「綴られた記憶/綴られる記憶」(MUSEUMSHOP T 2019年 東京)

「見知らぬ惑星」(アートフロントギャラリー 2017年 東京)

「フォロウイングザシャドウ」(アートフロントギャラリー 2015年 東京)

「Adrift in the dark」(ギャラリエ・カーシャ・ヒルデブランド 2013年 スイス)

「fear/ flight/ fleeting」(ラサール芸術大学ICAS 2011年 シンガポール)

「成層圏vol.1「私」のゆくえ」(ギャラリーαM 2011年 東京)

主なグループ展

「日本の美術を貫く炎の筆<線>」(府中市美術館 2020年 東京)

「ブレイク前夜 in 代官山ヒルサイドテラス 時代を突っ走れ! 小山登美夫セレクションのアーティスト38人」(代官山ヒルサイドテラス 2020年 東京)

「単位展」(21_21 デザインサイト 2015年 東京)

「現代美術の展望VOCA展2012-新しい平面の作家たち」(上野の森美術館 2012年 東京)

「あざみ野コンテンポラリーvol.2-Viewpoints」(横浜市民ギャラリーあざみ野 2012年 神奈川)

「MOT アニュアル2011 | 世界の深さのはかり方」(東京都現代美術館 2011年 東京)

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インタビュー記事

 「手を使って絵を描くときには手が全てで、世界はそこで終わってしまう。制作中はよく作品を触っているんですけど、それは確かめるような、というより、確かめたいという願いに近い。でも、確かめられない。その距離がすごく大切なんですね」

 「手を使って描く」「ボールペンだけで描く」など制作の手法にバリエーションが多いせいか、テクニカルな多彩さもしくは異彩さを業前として見てしまいがちかもしれないが、椛田の本質はむしろ生活の背後にある繊細な感覚を絵画によって叙情する、そのナラティブな能力にあるような気もする。筆者が椛田にインタビューをした3年前にも、また今回の対話でも、彼女が繰り返し話していた点は「見えないものを描くこと」だった。「見えないもの」「物語の向こう側」という言葉で形容される何かが、椛田が一貫して絵画を通して向き合おうとしているものだ。

 「絵を描くというのは、例えばツボを描いたとして、目の前にあるツボそのものではなくて、むしろその奥にある何かを確かめようとしている感覚に近い」と彼女は話すけれども、それは言い換えれば、カントが言うところの物自体(Ding an sich)のような、現象をさながらカーテンにしてその背後に隠れている(だろうと思われる)一種の形而上的な領域/事柄かもしれない。この現実の中で、物体ないし現象を前にしたときに感じ取る、けれども五感では捉えることが不可能な、そういう存在。ところで椛田の作品は手数の多さ、つまり、一つの作品に加えられる作業量が比較的に多いことが特徴であるようにも思うが、先の話を前提にして考えるなら、その支持体に加えられる夥しい線描の様子に「ものの向こう側」の手触りをどうにか確かめようとする、現象界の縛りから逃れえない人間の哀しさ、葛藤や抵抗の足跡として見えるようにも思える。

 今回の展示にはこれまで椛田が取り組んできたボールペンのペインティングのほか、2011年頃から行っている鏡を支持体にしたシリーズも展示に並ぶ。像を反射させる性質を持った鏡は、当然ながら、それに向き合った鑑賞サイドの姿や空間が映り込み、件の「向こう側」が一つのアレゴリーとして表出される。もう一つの新しい点、というか、いささか突飛にも見える試みとして会場にはNFTの作品が並ぶが、とはいえこの作品も、つまりデジタルの作品も、ディスプレイに表示される映像(イメージ)とそれを見るものの対構図は、鏡の作品同様、「向こう側」を意識させる構造を持っている。

 この作品も他のペインティングにも、基本的に椛田はスクエアの形態を採用することが多く、それは今回の展示タイトルにもなっているけれど、もちろんここにも意味がある。もともと四角形の支持体を用いていたが、今般のSNSの台頭によって、その形態はある意味でジェネラルなものになってしまったと椛田は話す。Instagramに溢れる、スクエアに表示された投稿画像の数々を目にしている私たちにとっては見やすい、もしくは見栄えする形態となった四角形。彼女にとっては「向こう側」に近づく行為を見せる、あるいはその行為にフォーカスさせるための、どちらかといえば無愛想な形状であった四角形。今回の展示では、一般化した形態としてのスクエアと椛田の支持体的な意味でのスクエア、それらを鳥瞰しながら捉えていく狙いがある。

 とはいえ、それでも、椛田のやっていることはただ一つであることに変わりはない。NFTにせよ、鏡の作品にせよ、椛田の仕事はグラデーションを持ちながらも、根底には一つの視座が、つまり現象の向こう側にある世界、目には見えないけれども気配を感じられる世界、この世界の影のような領域を確かめることであることに変わりはない。こういうと月並みだけれど、椛田の作品は、彼女が「向こう側」を確かめようとしてマテリアルと格闘/対話の顛末であり、結果であり、そして記録のようにも思える。その意味では、椛田はすごくシンプルで、それから率直な作家のようにも思えるのだ。

奥岡新蔵

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