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「野の花の上を歩く?」

伊藤瑞生

 

2022年6月30日(木)- 7月10日(日)

13:00-19:00 月、火休み

会場:東京都中央区日本橋久松町4-12コスギビル4F 長亭GALLERY

info@changting-gallery.com

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ステートメント

「私にとって世界はこう見えていますと語りかけるような、もしくは問いかけるような絵を描けたらと思います」

 

これは展覧会にあたって伊藤瑞生と取り交わした対話の断片、ことに彼女の作品が持つ性質について、もしくは彼女が持っている制作に対する姿勢について、あるいは持っている世界観そのものにまつわるものですが、「頭の中にある世界と自分の外に広がる世界、そのどちらとより自分の作品は近いか」という筆者の問いかけに対し、彼女はここに挙げたような言葉で応答してくれました。「自分にとってはすでにある世界、そこにあるものの方が大切に感じます」と。

 

「こんなもの見たことないだろう!」と、それまでになかった世界、見るひとが驚くような絵画を提示するより、今この世界にあるものが自分にはこう見えています、そしてこんなふうに思っています、と言いたいんだと思います。

 

理想郷のようなものも、たしかにあります。

自分にとって理想的で、欠けているものがなくて、完璧な世界も。

でもそれを言っても、少なくとも自分にとっては、そこで終わりで。

 

自分から世界を拒んじゃうような気がするんですね。

いくら自分の世界が美しくても、シャットダウンしていたらずっと一人のように感じてしまうと思う。

 

どちらが正解か否かではなく、またどちらが理想的であるべきか否かでもなく、あくまでも「自分にとって」と言い添えながら伊藤瑞生は自分の絵画は目の前の世界、そこに広がるリアリティと結びつきを持っているものだと話します。その上で、自分の絵画を誰かへと問いかけたいのだ、と。今回の展覧会に添えられたタイトル『野の花の上を歩く?』とは、まさにそうした鑑賞者へ問いかけを含ませたもので、地面に咲いた花を踏み通るか、それとも避けて通るか、あるいはあなたならどうするかという彼女からのささやかなイシューが潜んでいます。

 

とはいえ、彼女自身も「避けるべきとか、踏むべきでないということが言いたいのではない」と言うように、そうしたイシューを内含させることは鑑賞から何らかの問題を白日のもとに晒したり、糾弾したり、あるいは解決策の案じるための動作へと導くためではなく、思うにそれはもっとひそやかな理由、彼女の言葉を借りるならば「自分には世界がこう見えている」という、自身が持っている世界の写像を共有すること、あるいはこの世界の一角にある光景をサジェスチョンすることにあるのではないでしょうか。

 

件の緊急事態宣言のさなかにとある庭園が人避けのために行った、幾万本のチューリップの伐採を期に向き合うようになったとある疑問が今回のタイトルのベースにあると彼女は話しますが、しかし問題を問題らしからず、つまりそれを責めたり解きほぐしたりするためのものとは扱わず、まるで野原のすみに咲いている花を見つけたことを教えるように淡然と扱うことは、ある見方をするならば奥ゆかしく、また違う見方をすれば歯痒くも感じられるかもしれません。しかし焦点は、むしろ彼女がこうした世界に転がる何かを見つけたおりに感じた、最適解が知りたいわけでも白黒をつけたいわけでもない、取り立てて騒ぎにしたいわけでもないような、行き場を欲するわけではないが確かに生活の中にある、より糸のように複雑に絡まったいくつかの感情の束を絵に起こし、それを他者と分かち合おうとする姿勢にあるように思います。

 

彼女はステイニングと呼ばれる、かつてヘレン・フランケンサーラーというアメリカの画家が発案した手法を用いていますが、一重にそれは当時のムーブメントであった抽象表現主義のスタイルへ抒情性の導入を可能にするテクニックとして注目されたもので、筆者は「言いようはないけれど、確かに私が感じているもの」という曖昧さ、言葉にならずにたゆたう肌感覚の居場所を絵画の中に与える手段だと解釈するのですが、その意味で彼女の実践に向いているのだろうと感じます。「ひとも花も常に動いていて、そうした流動的であることが自然で、自分にとっては大切に感じる」と本人が話すように、滲んだ輪郭線による糢糊とした像を配した画面は、まさに彼女が見ている世界、彼女にとっての世界の見え方を絵画として現実に添えるための、かつ答えとしてではなく問いとして提示するための、恰好の言語なのかもしれません。そこには必ずしも万人の脳内とイコールのことが語られているわけでは、おそらくないでしょう。あるいは度し難いことですらあるかもしれません。なぜならそれはあくまでも「私はこう思うけれど、あなたはどう思うか?」という、他者からの問いかけだからです。他者の言葉だからこそ、そこには「私」とは完全に重ならない、少しの気まずささえ感じさせる隔たりがあるはずです。とはいえ、その隔たりや違いは、私たちをお互いに他者であると発見させるきっかけでもあり、あるいは時として度が過ぎた同調と同意が持ってしまう暴力から私たちを守る、一つのしるしではないでしょうか。そういうわけで、伊藤瑞生という作家の絵画は、あくまでも私たちが私たち同士のままに触れ合うこと、そうして世界の何かを分かち合うことを前提におくような、あるいは他者と通じる際のわずかな苦味と豊さをはらんだ作品であるように、筆者には思えるのです。

奥岡新蔵

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伊藤瑞生

Mizuki Ito

■略歴
神奈川県生まれ
〈受賞〉
2020 シェル美術賞2020 入選
2020 Gallery美の舎学生選抜展 奨励賞
2019 シェル美術賞2019 入選
〈展示〉
2022 イケセイスタイル/西武池袋本店
2022 Expression/長亭Gallery
2021 SHIBUYA STYLE vol.15/西武渋谷
2021 曖昧なうねり/Meets Gallery
2021 ACTアート大賞展/The Artcomplex Center of Tokyo
2020 シェル美術賞展2020/国立新美術館
2020 学生選抜展/Gallery美の舎
2019 シェル美術賞展2019/国立新美術館

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